観光サイクリングin東海七福神の下見

観光サイクリングin東海七福神/入門

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新春第一弾の観光サイクリングは七福神巡りです。東京都品川区界隈の寺社を自転車で回っていきます。色紙にスタンプを押してもらう方は¥1,000、宝船に人形を集めていく方は¥3,000かかります。必要に応じて、色紙(273×242mm)などが入る大きさのリュックなどをご用意下さいね。

さて、まず七福神からざっくりと。
七福神のメンバーは、恵比寿様・大黒天・弁財天・毘沙門天・福禄寿・寿老人・布袋尊。

室町時代に密教僧や修験者が祈祷の中で用いた「七難即滅、七福即生(しちなんそくめつ、しちふくそくしょう)」という句があり、これは「七つの難を消して七つの福を授けたまえ」という意味で、この句に基づき七福神が生まれました。七難は「火難・水難・風難・羅刹(悪霊)難・刀杖(武器)難・伽鎖(投獄)難・怨賊(強盗)難」、七福は「寿命・有福・人望・清廉・愛敬・威光・大量(度量が広い大人物であること)」です。

古代バビロニア(現在のイラク辺り)の天文学で用いられた七曜は、現在の日曜から土曜までの暦でも使われているように、「七」は完結した数字であり、古代の日本や中国の知識人にも好まれました。中国の文人は「竹林の七賢」の姿を描いた絵画を多く残したそうです。3世紀の中国・魏(三国時代)の時代末期に、静かな竹林の中で高尚な話にふけった阮籍(げんせき)・嵆康(けいこう)・山濤(さんとう)・劉伶(りゅうれい)・阮咸(げんかん)・向秀(しょうしゅう)・王戎(おうじゅう)の七人の知識人を描いた絵が室町時代の日本の禅僧にも流行り、この流れから瓊春(けいしゅん)という禅僧が七賢図をまね、七柱の神の姿を描いた「七福神図」を描き評判になる。これが七福神の起源であると考えられています。

時は流れ江戸時代。徳川家康に仕えた僧の天海が七福の神を一柱ずつ選び、「七福神は七つの福を一つずつ受けもつ、互いに対等の神様である」という評価が主流になります。天海の勧めにより、徳川家康が狩野探幽に宝船に乗った七福神の絵を描かせたのも、庶民に七福神が広まった要因のひとつでしょう。「初夢(一月二日の夜)を見る日には枕の下に七福神の宝船の絵を敷くと良い」という俗説も江戸時代に生まれ、七福神巡りは江戸時代の中期以降に定着していくのでした。

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東海七福神巡りの最初は品川神社から。創建は文治3年(1187)。主祭神は、源頼朝が海上交通安全と祈願成就の守護神として勧請した安房国の洲崎明神である天比理乃命(アメノヒリノメノミコト)。その他に、素盞嗚尊(すさのおのみこと)、宇賀之売命(うがのめのみこと)を祀っています。源頼朝、徳川家康、明治天皇ゆかりの歴史ある神社です。

まず目を引くのが見事な鳥居。「双龍鳥居」といいまして、左の柱に昇り龍、右の柱に降り龍が彫刻されています。双龍鳥居は、杉並区の高円寺と馬橋稲荷神社にもあり、品川神社の鳥居と合わせ「東京三鳥居」といわれているそうです。

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品川神社は大黒天。七福では有福を担当しています。

インドのバラモン教から発展したヒンドゥー教で、特に重んじられている三つの神であるブラフマン(世界を創造)、ヴィシュヌ(世界を維持)、シヴァ(世界を破壊)。古代インドではシヴァ神の姿をかたどった三面六臂(さんめんろっぴ/三つの顔で六つの腕)の像がマハーカーラとして祭られてたそうです。マハー(大きく広いこと)、カーラ(黒いこと)という意味から中国で大黒と訳され、大黒天になりました。

本来は武芸の神でしたが、中国の寺院の食堂に大黒天の像を祭る風習から「人々に食物を授ける役割の仏」となり、平安時代初めに最澄によって日本に伝えられます。中国では大黒天と道教の太極の考えが結びつきます。中国には全ての物を陰と陽で分ける陰陽説があり、例えば、天が陽・地が陰、男性が陽・女性が陰、根菜が陽・葉菜が陰などがあります。太極は、陰と陽がちょうどよく融け合った状態が理想の姿で、太極図は一体になったありさまを示すものです。天(陽)にあたる屋根と地(陰)にあたる土台を繋ぐ柱を太極柱といい、大黒天が太極に融合したため大黒柱と呼ぶようになります。

また日本に伝わってきてからは大国主命(オオクニヌシノミコト)と習合します。大国はダイコクと読めるからでしょうか。大国主命は、日本書紀ではスサノオの息子、古事記ではスサノオから数えて六代あとに生まれたとされます。日本神話ではイザナギとイザナミが日本列島という国土を作り、大国主命が初めて日本を治めて農耕や医療を教えたとされ、「国作らしし大神」と呼ばれた権威のある神です。大国主命にまつわる有名な話では、因幡の白兎、八十神の迫害、根の国訪問、などがあります。出雲大社の主祭神。

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品川神社の石段を少し登ると左手に富士塚である品川富士の登山口があります。

都内でも最大級のこの富士塚は明治2年(1869)に造られ、大正11年(1922)にこの場所に移築されました。富士信仰は江戸時代に急速に広まります。江戸時代初期、角行(長谷川左近藤原邦武)という修験者が江戸の市中で呪術を行いつつ富士信仰の布教を行い、町の組織を単位にたくさんの富士講が作られ「江戸の八百八講、講中八万人」と呼ばれるほど江戸の庶民に浸透します。

富士山への登拝は、講中の代表として参詣する代参という形をとっていましたので、通常は行けない庶民の信仰の対象として富士塚が作られました。富士塚は、富士山の登山道まで忠実に模した造形美に溢れたものです。

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品川富士から下山したところにある「ぶじかえる」。

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品川神社拝殿。

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天台宗の養願寺は正安元年(1299)に創建。
東海七福神では布袋尊、七福では大量を担当しています。

布袋尊は中国の唐時代に実在した僧侶で、916年に浙江省の岳林寺で亡くなったと伝えられています。死後に弥勒菩薩の生まれ変わりだと考えられ神格化されました。本名は釈契此(しゃくかいし)ですが、大きな布の袋を担いであちこち旅をしたことから布袋和尚と呼ばれたそうです。

不思議な力がいくつもあったそうで例えば天気予知。雨の支度をすれば雨が降り、野宿をすれば一度も雨が降らなかったそうだ。また、大きな袋はいつも食べ物で一杯だったそうです。多くの人が布袋和尚に食物を与え、その袋から貧しい人に食物を与えていたと想像することができます。

死後、ふくよかで柔和な容姿が親しみやすかったのか、中国の人々が布袋和尚の絵をたくさん描きます。それが室町時代の日本の禅僧にも流行り、たくさんの布袋図が描かれます。布袋和尚を弥勒菩薩とする信仰も受け入れられ、身近で人間に近い福の神として人気になるのでした。

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真言宗智山派の一心寺は安政2年(1855)に創建。
東海七福神では寿老人、七福では寿命を担当しています。

寿老人は道教の神。南極老人星(カノープス)の化身とされています。中国の文献に「南極星が現れた時は天下泰平になる。この星が現れないと兵乱が起こる」「老人星が人々の寿命を支配する」など記されており、古代中国の南極星信仰を窺い知ることができます。

日本では禅僧以外には馴染みの薄い神ですが、鹿を伴った寿老人は同じく鹿を神の使いとした春日信仰の人々に支持されたと考えられています。江戸時代になり、佐原鞠塢(さわらきくう)の屋敷(現在は向島百花園)に文人たちが集まり隅田川七福神を作ります。その際に白鬚神社の白鬚大明神を寿老人の代わりとし神仏習合がなされたようです。

白鬚神社というと猿田彦命が主祭神ですが、関東の白鬚神社は埼玉県日高の高麗神社の影響が強いそうです。高麗神社は高句麗王族である高麗若光(こまのじゃっこう)を祭っていて、若光はしらひげの神であり白鬚大明神と称されています。

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荏原神社は和銅2年(709)に創建。主祭神は高龗神(たかおかみのかみ)で水神(または龍神)です。京都の貴船神社も主祭神は高龗神。それもそのはずで昔は品川貴船社と称しており、明治8年(1875)に荏原神社に改称したそうです。

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荏原神社は恵比寿様。七福では清廉を担当しています。

恵比寿様は七福神唯一の日本生まれの神様です。古代の漁民の間に漂着物をご神体として祭る習俗があったようで、丸い石、鯨の骨、南方から流れて来た日本にない道具など、異国からきた「えびす神」とされ、豊漁をもたらす海の神と考えられていました。

そして古事記に記されている蛭子命(ヒルコノミコト)が登場します。イザナギとイザナミの間に生まれた最初の神。不具合な子であったために葦の船に乗せて海に流されてしまいます。現在の兵庫県西宮に漂着したのか、西宮の漁民の漁業の神として祭られ西宮神社の主祭神となりました。平安時代末期に日宋貿易が盛んになり、たくさんの船が瀬戸内海を航行するようになります。蛭子命が航海の神として参拝されるようになっていきす。

時代は下り、室町時代の頃、大阪の今宮戎神社のえびす神が商売繁盛の神として各地の商人の信仰を集めるようになりました。そして「今宮の神は、西宮のえびす神とは別の神だ」と主張し、今宮のえびす神は事代主命(コトシロヌシノミコト)だと言い始めたそうです。事代主命は大国主命の息子です。事代主は釣り好きだったため、釣竿に鯛を小脇に抱える姿になったと考えられています。また、釣竿は「釣して網せず」という教えを表すもので、魚を根こそぎ獲るような商売をしてはならないという商人を戒めるもの。恵比寿講という商人の集まりは、「欲張らず地道に正直に商売をする」と考え、お互いに信頼し合って仕事に励んだそうです。

一方の西宮神社は旅芸人が人形芝居で恵比寿の神を庶民に広めていくのでした。また、恵比寿様は田の神としても信仰を集めます。これはホツマツタヱという文献に詳細に記されているのですが、ホツマでは蛭子命をワカ姫として描いています。和歌の達人、縄文琴の達人、呪文を唱え稲穂の虫除け、など多くの才能をみせたのです。

このような流れから、漂着物の神、蛭子命(エビスとも読める)、事代主命が合わさっていき、恵比寿様が日本人に最も身近な七福神となりました。

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荏原神社の狛犬は一見の価値があります。たくさんの狛犬を今まで見てきましたが、この狛犬の造形美と品性は日本一ではないでしょうか。江戸ぼたんの彫りの優雅さ、緻密さは文句なしでしょう。明治29年(1896)栗原巳之吉の作。

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真言宗醍醐派の品川寺(ほんせんじ)は大同年間(806~810)の創建。
品川寺は毘沙門天。七福では威光を担当しています。

品川寺は山門手前の江戸六地蔵が見事。宝永5年(1708)に建立され、江戸中期の鋳造像としては大作だそうです。

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境内は、意匠に凝った明暦3年(1657)の大梵鐘、樹齢600年のイチョウの木、写真の弁天堂など見所多数です。

さて毘沙門天。古代インドの富と財宝の神であるクベーラが、仏教に取り入れられて毘沙門天になりました。仏法を守る四天王として北の守りを受け持つようになります。現在の新疆ウイグル自治区に昔はホータン王国があったのですが、王家の先祖といわれる毘沙門天が国土守護の仏とされ武装した像になりました。

中国でも武人姿の毘沙門天を護国の仏、戦勝をもたらす仏として信仰するようになります。日本では聖徳太子が物部氏との争いで四天王に戦勝を祈ったそうです。また京都の北方を守る目的で毘沙門天を祭る鞍馬寺を朝廷は重んじるなど、インドでの財宝の神から日本では武芸の神として定着するのでした。

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旧東海道は一方通行な上に交通量も少なめ。自転車で快適にス〜イスイ。

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お昼は立会川吉田家で。安政3年(1856)の老舗です。坂本龍馬や山岡鉄舟も舌鼓を打った歴史あるお蕎麦屋さんです。お味も実に美味しく、個人的に大好きなお店です。

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冷たい蕎麦、温かい蕎麦、そして温かいうどん、さらに丼ものとメニューは実に充実。
一品料理も美味しく、時間が許せば「そば会席」も堪能できます。写真は鳥南蛮です。

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天祖諏訪神社は、立会川を挟んで鎮座していた天祖神社と諏訪神社が昭和40年(1965)に合祀。もともとの天祖神社は建久年間(1190~1199)、諏訪神社は寛永8年(1631)以前の創建といわれています。

東海七福神では福禄寿、七福では人望を担当しています。

福禄寿は、寿老人と同じく道教の神で南極老人星(カノープス)の化身。中国は北宋の時代に老人星の化身とされる老人が開封に現れたそうです。身長がわずか90cmで、体と頭が同じ大きさであった。占いをし生計を立て、銭が入ると酒代に。老人は「我が身は寿命を益する聖人である」と頭を叩きながら言っていたそうです。道教では福・禄・寿(幸福・富貴・長寿)は人間の三大願望とされ、中国人は福禄寿は3つの全てを授ける神だと考えられ、日本でもこのような信仰が伝わって庶民に広がりました。

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敏達天皇(びだつ天皇/572~585)の頃に創建したとされる磐井神社。
東海七福神では弁財天、七福では愛敬を担当しています。

弁財天は七福神の中では紅一点、インドの川の女神サラスバティーが中国経由で日本に伝わり弁財天となりました。インドでは阿修羅を退治した話もあり、悪魔を退けて人々を守る神だったのですが、中国では水を与えて農業を助け豊かにするということの他に、弁舌、音楽、知恵の神としても信仰されます。そののち財運をもたらす仏として変貌していきます。

日本に入ってきてからは、市杵嶋姫命(イチキシマヒメノミコト/宗像三女神の一柱で水の神)、宇賀神(中世以降に信仰された人頭蛇身の神)が神仏習合され、さらに吉祥天信仰や天鈿女命(アメノウズメ)信仰を取り込み、多様な性格を持つようになって広まっていくのでした。

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磐井神社の前には磐井の井があります。東海道を行く旅人の喉を潤した井戸。

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七福神巡りの後は縄文時代です。大森貝塚遺跡公園へ。

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エドワード・シルヴェスター・モース。1838年アメリカのポートランドで生まれたモースは、明治10年(1877)39歳の頃に来日。横浜駅から新橋駅に向かう汽車の窓から貝塚を発見するのでした。

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ジャーン!復元ですが地中に埋まった貝塚です。

貝塚は縄文時代のゴミ捨て場で、食用した貝が大量に捨てられています。貝以外にも動物の骨・土器・石器などがみつかり、大森貝塚で発掘した土器をモースが「Cord Marked Pottery」と報告したことから縄文土器、そして縄文時代と呼ぶようになりました。

ちなみに明治17年(1844)に東京都文京区弥生の貝塚から発見された土器を発掘された地名から弥生土器、そして弥生時代と呼ぶようになります。昭和24年(1949)に相沢忠洋さんが岩宿遺跡から黒曜石の打製石器を発掘し旧石器時代の存在を証明します。

エドワード・モースと相沢忠洋さん、この二人が日本の考古学において重要な発掘調査を行った人物なのです。

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馬込はV字坂の聖地とマニアの間で言われています。実際に自転車で走ると分かるのだけど、海に向かう川の流れ(または用水)によって丘と谷が複雑に形成されているのですよ。写真は丘で左右には谷があるんです。横に走ったらアップダウンの連続ね。

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洗足池の畔に建つ国登録有形文化財の鳳凰閣。
鳳凰閣は、勝海舟の土地を受け継ぎ、「勝海舟の遺蹟保存及び国民精神涵養のための図書を蒐集し、公衆の閲覧に供えて社会に貢献する」目的として講堂兼図書館が昭和3年(1928)に建てられます。

建物は、鉄筋コンクリートの2階建てで20世紀前半に多く見られたネオゴシック様式を基調とした造り。また、モダニズムの影響が見られる外観、建物の細部にはアール・デコ調の文様なども施され、当時としては先端の造りであり、昭和初期に見られた洋風建築物の特徴を今によく残しているそうです。

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洗足池とユリカモメ。洗足池は水面の広さが約40,000㎡あり都内屈指の広さを誇る湧水池です。日蓮上人が「足を洗った」ことからその名前がついたと言い伝えられ、源頼朝、西郷隆盛も立ち寄った逸話も残されています。

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勝海舟夫妻の墓。

勝海舟は、慶応4年(1868)の鳥羽・伏見の戦いで敗れた幕府の代表として、官軍の代表の西郷隆盛と池上本門寺で会談。その結果、江戸城無血開城が実現し江戸は戦火から免れます。会談の帰路に洗足池の茶屋で休息したことが縁で、勝海舟は別邸の洗足軒をこの地に設けます。明治32年(1899)に亡くなりこの地に葬られ、のちに妻も合祀されます。石塔の「海舟」の文字は徳川慶喜の揮毫と伝えられています。

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昭和チックな絵心が好みだったもので・・・

洗足池のその他の見所として、源頼朝ゆかりの名馬「池月」にちなむ池月像と池月橋があります。洗足池近くは馬込という地名だけあって馬の生産地という説があり、平安時代末期から鎌倉時代にかけての名馬「池月(いけづき)」と「磨墨(するすみ)」の伝承が残っています。池月は源頼朝が洗足池で宿営中、突如現れた野生の馬。磨墨は現在の南馬込で亡くなったとされお墓もある馬。2頭とも源頼朝の馬だったのですが、池月は佐々木高綱に、磨墨は梶原景季に下賜され、宇治川の戦いで二人は先陣を争うことになるのでした。前方を行く景季に対し、高綱は「馬の腹帯がゆるんでいるから、おしめなされ」と声をかけたという。景季が腹帯を締め直している間に、高綱は先に川の中に馬を乗り入れ向こう岸へと渡り、先陣の名乗りをあげたという話が有名です。

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洗足池自体が湧水池ですが、付近にある湧水からも用水路を通じて洗足池に流れ込んでいます。昔は4つ流れ込む湧水があったそうですが、現在は清水窪湧水からの流れのみが残っています。

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大岡山はパンで有名です。ヒンメル、ショーマッカー、イトキトなど実力店が点在。ヒンメルはバラエティーに富んだ日本人にも親しみやすいドイツパン、ショーマッカーはオーガニックにこだわったド直球で本気なドイツパン、イトキトはフルーツサンドが美味しいと評判で、オーナーの著書「イトキトのフレンチスタイルサンドイッチ」で全国に名を轟かせています。ツアーで立ち寄るのはヒンメルさん。可愛らしいポップな外観です。

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もちろんパンも美味しいです♪

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洗足池に流れ込む湧水として現在唯一残っている清水窪湧水を最後に訪れます。
東海七福神、縄文時代、そして湧水を巡るサイクリングツアー。おっ楽しみに〜♪

<参考文献>
七福神の謎77(武光誠 著)


池ヶ谷 誠

池ヶ谷 誠 の紹介

セブンヒルズアドベンチャー代表。東京近郊でアウトドアツアーを企画運営。MTB・トレイルランニング・シャワークライミングなどマルチにガイディングしています。
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