観光サイクリングin流山の下見

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観光サイクリングin流山の集合解散は東武野田線の運河駅。2013年から橋上駅舎としてリニューアル。東口の駅前広場やムルデル記念通りなど周辺も綺麗になりました。

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まず訪れるのは利根運河。日本初の西洋式運河で全長は約8.5km。利根川と江戸川を結ぶ運河です。江戸時代初期に水害防止などを目的として行われた利根川東遷事業により利根川の流れは大きく変わります。江戸に注いでいた流れから、渡良瀬川や鬼怒川の流れと合流し銚子に注ぐ流れになりました。それに伴い水運も変わります。東北地方の太平洋沿岸と江戸を結ぶ物流は、房総半島をまわって江戸まで運んでいたのですが、銚子から利根川を関宿まで遡り、江戸川を下るというルートが使われるようになります。しかし江戸時代後期頃には川底に土砂が溜まり(浅間山の噴火による影響でしょうか)、関宿付近の船の航行が難しくなってきます。仕方なく流山付近の陸路を馬車や人力車によって運ばれることになります。しかし時間も費用もかかるいうことで利根運河の計画が浮上します。

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利根運河を設計し現場監督にあたったオランダ人技師のムルデルの碑。明治21年(1881)に着工し、明治23年(1890)に約2年の歳月をかけて完成させました。働いた人の数は延べ約200万人といわれる大事業。しかもクワ、ツルハシ、モッコによる人力作業によるものですから工事はさぞかし困難だったことでしょう。

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ローウェンホルスト・ムルデルは1848年生まれのオランダ人土木技師。明治12年(1879)3月に来日し、明治23年(1890)5月に帰国するまで日本に滞在した約11年に様々な土木事業の案件に関与します。児島湾干拓、広島港築造、三角港整備、鮫港整備、鬼怒川治水、富士川治水、亀田川転注、利根運河開削、淀川治水、下関港整備など。

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江戸川河川事務所内にある利根運河交流館に立ち寄ります。
利根運河に関する資料をコンパクトながら展示しています。トイレ有。

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利根運河について少しお勉強したらサイクリングの時間。まずは運河水辺公園から利根川方面に向かって走ります。両岸にサイクリングロードがあり自転車にはもってこいです。

さて、明治23年(1890)に完成した利根運河ですが、明治29年(1896)に鉄道の土浦線(現在の常磐線)が開通したことで風向きが変わります。最盛期は1日に100艘ほど運航していましたが、鉄道開通やその後の道路整備により利用は減少。通行料による収入で利根運河株式会社は成り立っていましたが、土砂をすくう毎年の手入れや洪水による被害で経営は圧迫されていきます。とどめは昭和16年(1941)の洪水による被害。水堰橋などが壊れ船が通れなくなりました。立て直す力は運河会社にはなく解散、国有化されます。

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利根川近くにある運河水門は1975年建設。国有化されてからは堤防を高く補修したり、このように新しい水門が作られたり、ムルデルが作った当時とは変わってしまったでしょうが、谷津(なだらかな谷)を利用した曲線美の流れを現在でも堪能できます。

国有化以降は、洪水対策として利根川の洪水を江戸川に分水する役割、首都圏への生活用水を送るための野田緊急暫定導水路として活用されました。平成12年(2000)に北千葉導水路が完成し導水路の役割を終え、さらに平成18年(2006)利根川水系河川整備基本方針が策定され、利根川からの500m³/sの洪水分派計画が削除されました。現在では、潤いのある景観として利根運河は地域の方に親しまれています。

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運河水門の近くにある煉瓦造りの樋管。明治41年(1908)に完成したもの。
現在では工事車両が行き交う荒れ地にポツンと放置され全く機能していませんが、当時は利根川への排水路として使われ、利根川が増水した時の逆流防止の役割を果たしていたと推測できます。現在は河川構造令で鉄筋コンクリート以外で建設することは禁止されているため、レンガを構造材として使うことはできず、明治〜昭和初期にかけての貴重な土木遺産です。現存する煉瓦造りの樋管はそうは多くないので大事にしたいものですね。

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利根運河を後にしてオランダ観音に立ち寄ります。流山は江戸時代に小金牧という軍馬育成のための放牧場でした。牧は明治2年(1869)まで存続し、その後開墾されます。
さてオランダ観音。幕府がオランダを通じて得たペルシャ馬をこの地に放牧したのですが、風土になじめず不慮の死を迎えてしまいました。村人はそれを哀れみ祠を建てます。延宝4年(1676)に1基、明治時代に1基の計2基の祠が建立されています。

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南下し鰭ケ崎(ひれがさき)駅にやってまいりました。この駅は流山線の渋い駅。
流鉄流山線自体が、馬橋=幸谷=小金城趾=鰭ケ崎=平和台=流山の6駅を結ぶ路線総延長5.7kmの短い鉄道路線です。ローカル感溢れる渋い駅。

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その鰭ケ崎駅そばで営業している丸十パン店。昭和41年(1966)開業の老舗です。この昭和レトロな佇まい・・・完璧です。さて、丸十パンの始祖は山梨県塩山出身の田辺玄平。明治34年(1901)に渡米し現地の製パン法を習得しました。明治43年(1910)に日本に帰国したそうですから約10年アメリカに滞在したのですね。当時の日本には冷蔵庫がなく生イーストの管理がほぼ不可能だったため、私財を投じドライイーストの研究に励んだそうです。大正4年(1915)にその製法を完成させました。その製パン法を学ぼうと全国から弟子が集まり、門弟が田辺家の家紋を商標に掲げ全国に広まりました。

丸十パンは、酒粕あんぱんを開発した木村屋総本店、クリームパンを創案した本郷東大赤門前の中村屋、たまごパンの永藤パン店、カレーパンを考案した深川のカトレアと並ぶ老舗のベーカリーだそうです。

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店内も昭和レトロな香り。惣菜パンや菓子パンなどがラップに包まれているのです。
店内には電子レンジも置いてあり、「チンすると美味しくなるよ」とお店のおばさまがアドバイス&チンしてくれる(忙しい時は知りません)。優しいじゃありませんか!
パンも懐かしく優しい味わい。名店です。

今回の観光サイクリングは行程が長めなので飲食店には寄らず、テイクアウトで手早く済ます算段です。ただし寒い冬。パンだけでは体が温まりませんので、パン屋のあとにコンビニに立ち寄り、温かいものと一緒にパンを食べることにします。

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鰭ケ崎駅近くにある鰭ヶ崎三本松古墳。6世紀頃に造られた前方後円墳です。現在は公園整備のために墳丘の上は立ち入り禁止。下から望むと痛々しさすら感じます。だが待ってほしい。墳頂には文政11年銘(1828)の古墳碑があり、「天明の飢饉の時に人々が苦しみ、古墳に埋納された財宝を掘り出し飢えをしのごうとした。それを知った当時の庄屋は、人々に古代の人の墓をあばく事をたしなめ、古墳を守り通した」と記されています。時代の流れを感じずにはいられない鰭ヶ崎三本松古墳。嗚呼。

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流山の中心部あたりに移動。まずは江戸川の丹後の渡し跡。
ここは新撰組が流山に入ったとされる渡しです。三艘の舟が用いられていたそうです。

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対岸が三郷市側になります。昭和10年(1935)に流山橋が建設され丹後の渡しが廃止。
昭和40年(1965)に現在の流山橋が完成し、現在では橋脚部分だけ残されています。

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鳥居前の大しめ縄に圧倒される赤城神社。ここは流山の地名発祥の地と云われています。小高い山(約15m)の上に神社は建っているのですが、この山は上州の赤城山が崩れて流れ着いたできたという伝説を持っています。だから「流山」なのですね。
この大しめ縄は、長さ7.5m、重さは約500kgにも及ぶそう。

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一茶双樹記念館。白味醂の開発者の1人といわれる五代目秋元三左衛門(1757〜1812)は、酒造業の傍ら双樹と号して俳句を嗜み、小林一茶(1763〜1827)と深い親交をもちました。一茶は流山の双樹のもとを生涯に50回以上訪れたそうです。

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白味醂発祥の地は流山。当時の味醂は関西の赤味醂でしたが、改良し白味醂として天明2年(1782)に五代目秋元三左衛門が「天晴味醂」を売り出したのが最初といわれています。その後、文化11年(1814)に二代目堀切紋次郎が「万上味醂」を売り出し、この2つがメジャーブランドとして江戸の町で人気を博したそうです。当時は調味料としてではなく、甘いお酒として飲用されていました。一茶双樹記念館の入り口には味醂醸造の歴史が展示されています。また1・2階に展示室があり、一茶との交遊を中心に展示。

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奥に進み、一茶庵と双樹亭の内部も見学することができます。

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双樹亭と庭園。安政4年(1857)に建てられた双樹亭。その後、移動(曳屋)、増改築をしていますが、往時を偲ぶことができる素敵な一茶双樹記念館。

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流山には貴重な見世蔵も多く残されています。明治22年(1889)建築の寺田園茶舗。
昭和38年頃まで茶舗として営業され、その後倉庫として使われていました。
現在は万華鏡ギャラリーとして展示・販売しています。

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創業明治35年(1902)の老舗和菓子店の清水屋。

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近藤勇陣屋跡。丹後の渡しから流山に入った新撰組はここに本陣を構えます。しかし新政府軍に包囲され近藤勇(局長)は出頭、矢河原の渡しから流山を去り板橋で処刑されます。残された新撰組本隊は流山を脱出し、会津を経て箱館戦争で降伏、土方歳三(副長)も箱館五稜郭防衛戦にて戦死します。

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浅間神社。ここは新政府軍が境内裏に仮本陣を置いたとされます。

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境内には関東を中心に数多く分布する富士塚があります。江戸時代中期から富士山信仰は畏敬遥拝から登山参拝に変わり、富士登山をすることが流行となります。しかし富士登山が出来ない人も数多くいるため、ミニチュア富士を造り参拝するようになります。

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小さいながら急峻な登山道。富士山の頂上から運んだ土を盛っていて、合目を刻んだ石が中腹に置かれています。造形美も素晴らしく、きっと御利益があることでしょう。

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丁子屋。大正12年(1923)に建てられた足袋屋を改装し、現在はイタリアンレストランとして営業しています。

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明治23年(1890)建築の呉服新川屋店舗。

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呉服新川屋店舗から江戸川土手の矢河原の渡しに向かいます。
土手の手前に今上落川という水路があります。農業用水路として水田の余剰水や雑排水を集め江戸川に流しています。今上落しは利根運河の工事を大変にします。利根運河を造る際に今上落しの流れを運河の下にくぐらせる(伏越)という難工事でした。その長さは724m、工事におよそ1年かかったそうです。

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矢河原(やっから)の渡し跡。近藤勇がここから流山を後にしました。

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この矢河原の渡しは昭和35年(1960)まで存続していたそうです。

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かごや商店は昭和28年(1953)創業の老舗酒屋。古式造りを再現した極上本みりんを販売(製造は利根運河沿いにある窪田酒造)しています。

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最後は江戸川側より利根運河を運河駅方面へ。
流山の名所を巡りながら約35km程度のサイクリングはいかが?
お待ちしていま〜〜す!!!


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池ヶ谷 誠 について

セブンヒルズアドベンチャー代表。東京近郊でアウトドアツアーを企画運営。MTB・トレイルランニング・シャワークライミングなどマルチにガイディングしています。1973年神奈川生まれ。
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観光サイクリングin流山の下見 への2件のフィードバック

  1. 林あきこ のコメント:

    何度か息子健太朗がお世話になっております!今回11日に地元流山にセブンヒルズアドベンチャーの方々がいらっしゃると知り大変嬉しいです。どこかでハイタッチでも出来ればと思います。富士塚あたりは何時頃通過でしょうか?
    清水屋も丁子屋も徒歩3分です!

  2. アバター画像 池ヶ谷 誠 のコメント:

    林あきこ様、こんばんは〜!
    その節はありがとうございました。
    な〜〜んと、流山の中心部にお住まいだったのですね。
    先日、あの辺りをウロウロしていて良い所だな〜と感じたばかりです。

    清水屋さんが今度の水曜が祝日だけど定休通りとのことで、
    おやつタイムがなくなり少し残念ですけど、流山をガシガシ漕ぎ回ってきます。

    富士塚あたりは・・・おそらく14時前後になると思います。
    自転車で10名ちょいなので、かなり目立つのではないでしょうか。
    ではでは、水曜は楽しんできま〜〜〜す。

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