観光サイクリングin大磯の下見

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観光サイクリングは大磯です。
関東の駅百選にも選ばれている大磯駅は1887年(明治20年)開業。明治政界の奥座敷として大磯には8人もの宰相が別邸や邸宅を構えました。伊藤博文(初・5・7・10代)、山県有朋(3・9代)、大隈重信(8代)、西園寺公望(12代)、寺内正毅(18代)、原敬(19代)、加藤高明(24代)、吉田茂(45・48・49・50・51代)と錚々たる顔ぶれ。これだけ多くの政財界の大物が大磯に関わったのは、日本最初の軍医総監である松本順の人脈が大きい。松本順については後ほど。

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大磯の駅にはホームにも線路脇にも看板広告がない。
大磯に住んでいた文人や有力者たちの運動によるものだという。その伝統が今も引き継がれていることに地元住人の景観に対する美意識が伺われます。

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大磯は海も近いが山も近い。
駅のすぐ裏手は湘南平の豊かな自然が残されています。
まずは標高差約200m程度のヒルクライム。斜度はキツめ。

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登りきるとレストハウスとテレビ塔がある広い山頂で公園になっています。

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湘南平から下り大磯の町へ戻ります。
大磯は東海道本線の線路を境に海側と山側に分類されています。
この「夢の地下道」は車は通行できませんが、歩きや自転車は通行可。
この付近の線路の北側に住んでいる方は駅への最短路です。
自転車の方はブラインドコーナーで危ないので降りて通行して下さいね!

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「軽自動車ならば何とか通れるのでは?」という広さの自転車用の道。
別に歩行者用の階段もあります。

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夢の地下道からすぐに島崎藤村が晩年暮らした家があります。
内部も見学することができます。

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鴫立庵の隣にある「はやし亭」でランチ。(混み合ってる場合は変更アリ)
トンカツ、コロッケ、エビフライ、アジフライなどの揚げ物とハヤシライスがおすすめ。
このお店は立地が何より素晴らしい。隣接する鴫立庵の景観に溶け込むよう派手な看板を出していないところにオーナーのセンスの良さが伝わります。

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鴫立庵(しぎたつあん)は日本三大俳諧道場のひとつ(その他は京都の落柿舎、滋賀の無名庵)。江戸時代初期(1664年)に小田原のういろう商人である崇雪という俳人が、西行を慕い鴫立沢のほとりに草庵を建て、1695年に俳人の大淀三千風が鴫立庵を開庵。

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新古今和歌集の西行(平安後期〜鎌倉初期の武人・僧侶・歌人)の歌に「こころなき身にもあはれは知られけり鴫立沢の秋の夕暮」という鴫立庵辺り(諸説あり大磯〜藤沢・江ノ島辺りで詠まれたとも)にちなむものがあります。意味は「世捨て人である私が感じ取ったこの感動を、和歌のことばで伝えたい。鴫の群れが飛び立った羽音の轟く沢辺に、秋の夕暮れが寂しく訪れる」というもの。西行が陸奥に行く途中で詠んだ文治2年(1186)69歳の時の歌(26歳の時という説もある)。この歌は、能因(平安時代中期の僧侶・歌人)の「心あらん人にみせばやつのくにの なにはの浦のはるのけしきを」を踏まえているそうです。意味は「広々とした干潟に霞が立ち込めている。水辺には蘆の新芽が緑色に吹いている。美しさの分かる人に見せてあげたい。ここ津の国の難波のあたりの春の景色を」とのこと。なぜ西行が遠国の陸奥へ行ったのか?その背景ですが、まず治承4年(1180)に平氏による南都焼き討ちで東大寺が消失。これによって東大寺の大仏も焼け落ちます。東大寺復興事業を背負って立ったのが重源(ちょうげん)。大仏に貼箔する金が不足していて平泉の藤原秀衡(ひでひら)のもとへ勧進に行くことを重源の知り合いだった西行に依頼する。西行が藤原秀郷の流れを汲む藤原秀衡と同族であったこと。旅路の中継点である鎌倉の源頼朝に通行の許可を得るために、西行の歌人としての名声、由緒正しい弓馬の故実を体得しており頼朝には武門の権威として映るだろう、とのことから白羽の矢を立てたようだ。花を愛した西行、桜にちなむ和歌をたくさん残しています。奈良時代まで花と言ったら梅を指していましたが、平安時代の歌人は桜に詠むことが多くなり、特に西行の桜にまつわる歌によって、日本の花=桜になったのではないでしょうか。後の歌人や文学者にも多大な影響を与え、芭蕉の心の師でもある孤高の歌人。少し脱線しますが、西行(佐藤義清)は平清盛と生まれ年が同じであり北面の武士(上皇の身辺を警備する武士)として平清盛と親交があったようだ。晩年、平泉を訪れた際に源義経に会っていた可能性も高い。平清盛、源頼朝、そして義経。時代を動かした人物と深く関わっているのも興味深い。

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前述した崇雪も相当な西行の信奉者だったようだ。「鴫立沢」を探して歩き回りついに見つけ標石を建てます(1664年)。裏側には「看盡湘南清絶地(清らかですがすがしく、このうえもない所、湘南とは何と素晴らしい所)」と刻まれ、これが湘南発祥の地という説につながっています。崇雪の祖先は室町時代に中国から来たようで、かつて中国に存在した長沙国湘南県に似ていることからのようです。でもこの標石は塩害による損傷を防ぐために実はレプリカ。本物は大磯町郷土資料館で展示されています。

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大磯といえば虎女です。
曽我物語で有名な虎女(とらじょ)は平塚で生まれ大磯で遊女となりました。17歳の時に曽我十郎祐成(すけなり)と出会い、曽我兄弟が工藤祐経を討つ3年後まで愛を育みます。仇討ちを事前に打ち明けられていた虎女19歳の時の有髪僧体の像。曽我十郎祐成は本望を遂げますが、その場で新田忠常に切り殺されます。虎女も事件への関与を疑われ、源頼朝に召し出されて尋問を受けます。その後、出家し64歳で亡くなるまで、生涯を十郎の鎮魂に捧げ、十郎への愛を貫き通しました。

関連する興味深い話。正月の初夢に見ると縁起が良い夢をあげて「一富士、二鷹、三なすび」といいますよね。これは一説には江戸時代の中頃から「三大仇討ち」の「曽我兄弟の仇討ち」(曽我兄弟は富士の裾野で巻狩りが行なわれた際にこれに乗じて仇討ちを行なった)、「赤穂浪士の討ち入り」(播州赤穂藩浅野家の家紋が「丸に違い鷹の羽」だったことから)、「伊賀越えの仇討ち」(伊賀国はなすびの産地として知られていたことから)のことを言ったものだそうです。

さて、曽我兄弟の仇討ちをザックリと。建久4年(1193)5月28日、源頼朝が行った富士の巻狩りの際に、曽我祐成と曽我時致(ときむね)の兄弟が父親の仇である工藤祐経を討った事件。曽我兄弟の父親である河津祐泰は相撲も強く、河津掛けという技の由来にもなっているそうだ。この仇討ちを調べていくと、頼朝暗殺未遂説を触れなくてはいけない。源頼朝は建久8年(1198)に落馬し、それが原因で死去。と鎌倉時代の正史「吾妻鏡」にあっさり記述されています。不審点としては頼朝の死の前後3年間ほど吾妻鏡の記述が欠落しており、頼朝の死が書かれたのは死後13年後なこと。頼朝を取り巻く人々が次々と死んで行ったこと。そもそも吾妻鏡は北条が編纂していること。鎌倉にある墓は安永8年(1779)に薩摩藩主の島津重豪(祖である島津忠久が頼朝の隠し子であると島津家に伝わる史料に書かれているらしい。これはあまり信憑性がないと見られているみたい)が建てていること。さらに国宝である源頼朝像「別人説」(室町時代に描かれ足利尊氏の弟である足利直義という説が有力だ)まである。ま、この辺は手に負えないので謎ということで。前述の平清盛も白河天皇の隠し子説もありますし、歴史を調べるのって大変だなぁ。

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五智如来像。
石仏、石碑がたっくさんの鴫立庵でした。

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北浜海岸に移動すると大磯町の花であるハマヒルガオが咲いています。

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じゃん!松本先生謝恩碑。時の総理大臣であった犬養毅の筆によるもの。松本順が早稲田の自宅を犬養毅に譲ったという縁があるそうだ。松本順は軍医総監でありましたが、日本初の海水浴場を大磯に開き、別荘地開発の名プロデューサーでもありました。日露戦争当時に誕生した下痢止めの「征露丸」のパッケージに松本順の顔写真が使われていたそうだ。今でも奈良県にある日本医薬品製造社の「征露丸」には松本順の顔写真がロゴとして使用されている。名前が勇まし過ぎるので「征」から「正」に変更する会社がほとんどの中で、日本医薬品製造社の本気さと強い拘りを感じずにはいられませんね。

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明治18年に日本最初の海水浴場が大磯に開設される。
起源はヨーロッパ。温泉浴と同様に健康の維持と回復のためのものとして医師に処方されて出かけるようなもの。当時の絵を見ると海に鉄棒が何本も刺さっており、それに掴まり海水に浸かるだけだったようです。積極的に泳いだりしてる感じではないのが面白い。でも「海水浴」だから、確かに海水に浸かっているだけで健康の維持と回復という目的は達成できそうだ。海岸近くに旅館兼医療施設の祷龍館もあったようです。

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大磯は路地裏の小径がいい。
エリザベス・サンダースホームと愛宕神社の切通し。
鬱蒼とした緑で夏でも涼しそう。大磯は緑が多い。街並を語る上で一番の魅力ではないでしょうか。駅近くにもたくさんの自然が残されているのです。

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現存する日本最古のツーバイフォー工法の旧山口勝蔵別荘。明治後期の建築(大正初期との情報も)。現在は大磯迎賓館というイタリアンが営業しています。

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エリザベス・サンダースホームの外壁は高麗石が使われています。島崎藤村も好きだったというこの石垣。大磯のすぐ近くにある花水川付近に石切場があり採石されたものだ。
さて、このエリザベス・サンダースホームは、戦後の1948年に三菱財閥創始者の岩崎弥太郎の孫娘である沢田美喜が私財を投じ、寄付を募り、借金をして開設された混血孤児養護施設。ホーム設立後に最初の寄付をしてくれた聖公会の信者エリザベス・サンダースにちなみ「エリザベス・サンダース・ホーム」と名付けたそうです。

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別荘群の小径山側のコースを通り大磯城山公園へ。アジサイも咲き始め。
駐車場付近はマツバギクが咲き乱れ、林床にはドクダミの花も。

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大磯城山公園内にある大磯町郷土資料館。
大磯海水浴場の当時の絵、鴫立沢の標石の本物があります。

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最近の観光サイクリング企画は横穴墓巡りが欠かせませんが、
この地にもありました!城山横穴墓群。古墳時代後期で20基ほど!
横穴墓サイクリングというのも面白そうですよね〜。
そのうち企画してみましょうかしらね。マジで・・・

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旧吉田茂邸。昭和19年頃から、生涯を閉じる昭和42年までを過ごした邸宅。
兜門は1951年9月8日に締結されたサンフランシスコ講和条約を記念して建てられた門で、別名「講和条約門」とも言われています。昭和29年に完成。

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色彩豊かな日本庭園。

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七賢堂。
もともとは明治36年に伊藤博文が明治維新の元勲のうちの岩倉具視・大久保利通・三条実美・木戸孝允の4人を祀った四賢堂を自身の邸宅「滄浪閣」に建てたものでした。伊藤博文の死後、婦人により伊藤博文を加えた5人が祀られ「五賢堂」となりました。昭和35年に吉田茂邸に移設され、昭和37年に吉田茂が西園寺公望を合祀し、吉田茂の死後、昭和43年に佐藤栄作の名によって吉田茂が合祀され「七賢堂」となりました。

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吉田茂はバラの愛好家。バラの品種であるプリンセス・ミチコは、当時の美智子皇太子妃に捧げられたバラ。吉田茂バラ園で栽培され全国に広まったといわれています。

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旧吉田茂邸から別荘群の小径海側のコースを辿ると大磯松韻住宅街というビバリーヒルズ的な豪邸が立ち並ぶ区画があります。2003年1月に三菱商事と清水建設が開発をしたそうだ。それにしても美しいバラの邸宅ですこと。吉田茂もお喜びに違いない。

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滄浪閣は伊藤博文の本邸。
もともと滄浪閣は明治23年に小田原に建てられた別邸、明治30年に大磯に同名の邸宅を建てて移転し本邸に。死後は梅子夫人が居住、朝鮮の李王家の別邸、米軍が接収、昭和29年から大磯プリンスホテルの別館となる。2007年に西武グループの営業が終了し、現在は宙ぶらりんの状態である。滄浪閣の名の由来の通り「何事も自然の成り行きにまかせて身を処する」でいいのであろう。

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お金持ちの集まる所に美食あり。
井上蒲鉾店は創業明治11年。吉田茂が愛した井上蒲鉾店のはんぺん。
かまぼこ、はんぺん、さつまあげのお店。

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早速いただいてみました。とっても美味しいです。
本当に美味しいものは一見すると凡庸な味だけど深みがあるものだ。
食べてすぐに「ウマイ!」と感じるものは、実は美味しいものではないのだなと再認識させられる味である。書いていてよく分らないけれど是非食べていただきたい。はんぺんはそこらで売っているはんぺんではない。どちらかいうと蒲鉾に近いものがある。「ああ、これがはんぺんなのか!」と感嘆しきりである。もちろんさつまあげも上品で美味い。

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明治24年創業の新杵は和菓子屋さん。
こちらも島崎藤村、吉田茂に愛されたお店です。名物の西行饅頭、虎子饅頭が看板商品ですが、干菓子の豊富さが秀逸。これだけ干菓子をど〜〜んと売っているところはそうはないでしょう。お店の外観、内観ともに老舗の佇まいを大切にしているのが伝わります。

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虎子饅頭だよ〜。

大磯は予備知識があるとより楽しめます。西行や曽我物語の鎌倉時代、そして東海道の歴史、明治以降の政財界の関わり、そして豊かな自然。自動車では巡りにくい大磯の町は自転車で巡るのが一番です。観光サイクリングで大磯を五感で楽しみましょう。
お待ちしておりま〜〜す!


池ヶ谷 誠

池ヶ谷 誠 の紹介

セブンヒルズアドベンチャー代表。東京近郊でアウトドアツアーを企画運営。MTB・トレイルランニング・シャワークライミングなどマルチにガイディングしています。
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