観光サイクリングin横浜の下見

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観光サイクリングは横浜です。近場かつメジャーですので今更感はあるかと思いますが、灯台下暗し、着眼点を変えると新たな発見がありますよ。ツアーは根岸を起点に山手、関内、みなとみらいを巡ります。集合場所は根岸駅近くのコインパークになります。少しばかり分かりにくいのでご注意を。

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まず向かうのは根岸競馬場一等馬見所跡。昭和5年(1930)にアメリカ人建築家J・H・モーガンによって建築されました。明治元年(1868)ニューヨーク州バッファロー生まれのモーガンは、大正9年(1920)に来日し、東京・丸ビルや日本郵船ビルなどの建設に携わります。その後、銀行・ビル、学校、住宅など全国で30以上の建築作品を残していますが、半数は横浜に建てられています。昭和12年(1937)に肺炎のため死去。山手外国人墓地に眠っています。この後のツアーではJ・H・モーガンの作品を片っ端から立ち寄りますのでお楽しみに。

さて、根岸競馬場は幕末である慶応2年(1866)から昭和17年(1942)に幕を下ろすまで76年間ほど競馬が行われてきました。横浜は洋式競馬発祥の地。安政5年(1858)の日米修好通商条約によって横浜に外国人居留地が設けられます。彼らは日曜などに東海道を利用して川崎付近までレクリエーションとして乗馬をしていたので(このため生麦事件が起こり薩英戦争につながる)、乗馬を技術を競い合うのは普通の流れであり横浜の山下町で文久2年(1862)頃から洋式競馬が行われるようになります。山下町の競馬場は仮設でしたが、常設競馬場として根岸競馬場は作られました。

なお、ペリー来航による日米和親条約は嘉永7年(1854)に結ばれ、下田と箱館(現在の函館)の2港が開港。4年後の日米修好通商条約によって神奈川・長崎・新潟・兵庫も開港することになり、貿易も開始され200年以上続いた鎖国が終わります。この日米修好通商条約は不平等条約として有名なのですが、治外法権を認めてしまったこと、そして関税自主権を日本が持たない、というなかなか強引な要求をするタウンゼント・ハリスに対して弱腰(近年、見直す説あり)だった井伊直弼。これにより批判を浴び暗殺されることになります(桜田門外の変)。一方、日米和親条約でペリーと対峙した林復斎(はやしふくさい)が見事です。

「泰平の眠りを覚ます上喜撰(蒸気船)、 たった四杯で夜も眠れず」

という狂歌が詠まれたほどのペリーの砲艦外交にも林復斎は臆しませんでした。下田と箱館の2港のみを開港とし、乗組員に対する薪・水・食料・石炭は供給するが交易はしないというもの。隣国である清のアヘン戦争(1840~1842)を知っていますので交易はやすやすと認められるものではありません。清は英国に負けて多額の賠償金と香港を割譲するなどの結果となりました。とは言うもののペリーと対等に交渉ができたというのは時代背景があるのです。まず江戸幕府の軍事力というのは相当なものでした。徳川家康の時代には、世界の総鉄砲保有数の概ね半分を所持する世界最強の軍事大国。ペリーの8年前にアメリカのビットル司令官が浦賀にやってきて通商条約を求めてきましたが、その時は幕府はあっさり拒否しています。では、どうしてペリーに対して交渉の場に着いたかといいますと大砲なのです。昔は海上の船舶から発射する大砲は鉄球を発射するだけでした。対船舶には有効ですが地上にいる相手にはいかんせん分が悪い。土台が安定している陸から大砲を発射した方が精度も高いですからね。しかしペリーは爆裂弾直射砲であるペクサン砲を戦艦に搭載して来航してきたのです。よく黒船来航といいますが、ペリーが乗ってきたのは木造船。防腐と防水のためにコールタールを塗って黒かったのです。織田信長が木造船に鉄板を張った巨大戦艦を建造したこともある日本ですから大きな黒い戦艦にビビったとは考えにくい。蒸気船も想定内。要はペクサン砲に衝撃を受けたのです。

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さて、根岸競馬場の次は山手西洋館巡りです。
前述した日米修好通商条約によって横浜に外国人居留地ができます。山手、山下(関内)ですね。ですので西洋の建築がたくさん造られるようになりました。まず訪れる山手エリアは住居の西洋館が中心です。外交官の家は明治43年(1910)にアメリカ人のJ.M.ガーディナー(立教大学の校長でもあった)の設計です。家主は外交官であった内田定槌。もとは渋谷にありましたが平成9年に山手に移築。外壁は下見板張り。屋根は天然スレート葺き(粘板岩/宮城県石巻市の雄勝石が多く使われる)。上げ下げ窓には鎧戸。外観はアメリカン・ヴィクトリアン様式で凸凹の多い左右比対称が特徴。実はこの外交官の家。和館と洋館が併設されていましたが、洋館だけ移築されました。玄関ポーチの純和風な屋根庇も特徴的。関東大震災で当時の住宅のほとんどを失ってしまった山手において、明治時代の立派な洋館に触れられる貴重な洋館なのです。

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さぁ内部に入りましょう。まずは食堂から。格天井(ごうてんじょう)が見事です。重厚な雰囲気を持ち、アール・ヌーヴォーのデザインに包まれています。調度品は行く度に変わると思いますが、食堂にロウソクって優雅ですよね。光源がゆらゆらするのでカットグラスや銀食器が映えるのです。電灯ですと味気ない。

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食堂にある暖炉型ストーブ。薪型のブロックにガスの炎が映り込んで暖炉っぽくなるもの。周りには草花紋のレリーフタイルが貼られています。

タイルの歴史は古い。今から4600年以上前、古代エジプトのピラミッド内に使用されたエジプシャン・ファイアンスが起源とされています。砂や石英を原料にし、表面を銅、鉛、錫などで着色。水色の美しいタイルです。その後イスラム圏で美しいタイルがモスクを飾ります。さらに中近東からスペインに伝わりスパニッシュ・マジョリカタイルが生まれます。タイルの表面に直接絵を描くのが特徴で芸術的なもの。さらにイギリスで機械による大量生産が可能になります。イギリスの彩色タイルはヴィクトリアンタイルと呼ばれ、住宅に多く利用されるようになります。イギリスの陶磁器メーカーであるミントン社が「マジョリカタイル」という商品名で売り出し人気を博します。さらに大正初期から昭和10年頃まで日本でも和製マジョリカタイルを10数社が製造し輸出までするようになりました。その後、関東大震災による急激な需要によって白無地タイルが多く使われ、さらに戦争に突入する時代では贅沢品と見られ和製マジョリカは衰退することに。

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植物模様のステンドグラス。綺麗ですね。
現存する世界最古のステンドグラスは、ドイツのロルシュ修道院で発掘されたキリストの頭部と見られるガラス片で9〜10世紀(日本は平安時代)のもの。日本ではドイツ留学し技法を学んだ宇野澤辰雄が明治22年(1889)に国産ステンドグラスを完成させます。現在では300軒近い工房が日本にあるそうです。

この食堂はアール・ヌーヴォーで飾られていますので、次にアール・ヌーヴォーとアール・デコについて補足します。アール・ヌーヴォーは、植物など自然をモチーフにした流れるような曲線や情感が特徴。アール・デコは、直線的、幾何学的で、情感的な要素を排し知的な構成と表現が特徴です。産業革命以降、粗悪になった実用品に芸術性を取り戻そうとアール・ヌーヴォー(フランス語で新しい芸術)という運動が起こり1890~1905年頃(明治23~38)に流行ります。続いて1910~1930年頃(明治43~昭和5)にアール・デコ(フランス語で装飾芸術)が流行ります。曲線を多く用いるアール・ヌーヴォーですと大量生産がしづらく高コスト、またデザイン的にもシンプルにしたくなったのでしょう。

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外交官の家で特徴的なのが八角形の塔屋。その1階はサンルームになっています。全面がガラス張りになっており冬でも暖かく、またガラスの下は無双窓になっているので夏になると風を通し涼しくなります。

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裏庭から見た外交官の家は最高のアングルです。

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続いて訪れるのはベーリック・ホール。昭和5年(1930)にJ・H・モーガンの設計により建築されました。地下1階は鉄筋コンクリート造り、地上は木造2階建て。スパニッシュスタイルで、オレンジ色のスペイン瓦。明るいベージュの外壁はコテでならした跡を残したモルタルの洗い出し仕上げ。玄関ポーチにはオレンジ色のタイルで飾った3連のアーチ。南スペインでよく見られる開放的な外観です。1階のアーチ窓と2階の四角窓の対比も面白い。さらに注目したいのは四葉のクローバーのような小窓。これはクワットレフォイルといいスパニッシュの意匠だそうです。また屋根瓦のある煙突も特徴的。

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玄関横にはライオンの壁泉。ライオンは西洋ではスフィンクスのような見張り役の意味を持つ。動物装飾も西洋建築の楽しみのひとつですね。

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ベーリック・ホールは装飾金具が多用され素晴らしい。まずは玄関扉。

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そして階段のアイアンワークの見事なこと。

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山手最大の邸宅なので内部はとにかく広い。
食堂は重厚ながら居心地の良い空間に。

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四葉のクローバーのような小窓、クワットレフォイルのアップ。
この紋様はイスラム風、もともとヨーロッパにあるゴシック風、と諸説ありますが、スペインはウマイヤ朝(イスラーム勢力)などに支配された時代が長くイスラムの文化が根強く残っていますから、イスラムの香りがあるのは当然のことです。ですので、設計者モーガンの意図としてはイスラム風だったのではないでしょうか。

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大きな居間(人がいたので写真撮れませんでした)の隣にあるパームルーム(ヤシの木)。窓だらけなので温室のようにぽっかぽか。こちらにもライオンの壁泉。

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昼食の調達です。山手にある人気のパン屋さん「ブラフベーカリー」でお買い物。
このパン屋さんはすっごく美味しいですよ。私は大ファンになっちゃいました。

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店名にもなっているブラフ積みを山手では観察することができます。80cm×25cm×20cmの房州石を長手と小口を交互に並べていく積み方です。レンガでいうフランス積みになります。ブラフは英語で崖という意味で山手はブラフ(崖)と呼ばれていたそうです。

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パンを片手に港の見える丘公園に移動しながらも見所をいくつか。
横浜山手聖公会も設計はJ・H・モーガンによって昭和6年(1931)に建てられました。鉄筋コンクリート造りですが、大谷石を貼った外観は見事です。正面玄関はチューダーアーチ(扁平尖頭アーチ)を何層にも重ねた凝った造りに。中世イギリスのノルマン様式を模しているそうです。

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横浜外国人墓地正門もJ・H・モーガンの設計。構造は石造。年代は不詳です。
モーガンらしく重厚感があるデザインになっています。

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港の見える丘公園に到着。ランチにしましょう。横浜ベイブリッジがお出迎え。

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じゃーーん!先ほど購入したパン達。どれもメチャウマでしたよ。
ご参加いただく皆様にはホットコーヒーをこちらでご用意しますね。

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昼食後は山手111番館(旧ラフィン邸)へ。大正15年(1926)にこちらもJ・H・モーガンの設計により建築されました。モーガン尽くし状態です。こちらもベーリック・ホールと似た造りでスパニッシュです。屋根には赤い瓦(スペイン瓦ではない)、3連半円アーチのポーチ、パーゴラ(藤棚)は南スペインの住宅の定番、外壁はスタッコ(化粧しっくい)仕上げの白い壁、と爽やかな外観となっています。

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玄関に入るとド〜〜ンとした抜き抜けのホール。2階は回廊になっており優雅な造りです。この建物は傾斜を利用して地下1階もあり、喫茶室として営業しています。
可憐な山手111番館でした。

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山手から坂を下り山下へ。
ホテルニューグランドは日本有数のクラシックホテル。戦前から営業し、戦前の建物を使っているホテルはそれほどなく日本全国で13ホテル。ですので貴重なホテルなのです。ホテルニューグランド本館は昭和2年(1927)に渡辺仁の設計で建築。渡辺仁の他に有名な作品では、銀座の和光ビルや上野の東京国立博物館本館があります。鉄骨・鉄筋コンクリート造です。マッカーサー、ベーブ・ルース、チャップリンなど数多くの外国著名人が宿泊しています。

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ホテルというと1階にロビーがあるのが通常ですが、ニューグランドのロビーは2階にあったのです(現在は新館に移動)。階段を上ると天井や梁に圧倒される漆喰彫刻が。京都の西陣織の名匠である川島甚兵衛が制作した綴織(つづれおり)の「天女奏楽之図」が鎮座します。綴織は高度な技術を要し、手間と時間のかかる作業なようです。照明は和風な灯籠。和洋折衷ですね。

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マホガニー貼りの柱、椅子は横浜家具(高級です!)、ニューグランドブルーの絨毯。
そのうち泊まりに来たいものですね!

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山下公園に移動し氷川丸です。昭和5年(1930)竣工と長い歴史を持つ。世界で唯一現存する戦前の大型貨客船です。豪華貨客船、海軍病院船、引揚船、そして豪華貨客船として時代の変遷を航海してきました。昭和35年(1960)に運航終了。現在は山下公園のシンボル的な存在です。

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山下公園は関東大震災の復興事業として整備されました。関東大震災の瓦礫で海を埋め立て造成したのです。このインド水塔も関東大震災に関連します。震災時に横浜に在住していたインド人116名が被災し死者も28名を数えたそうです。横浜市民は町の復興とともに、被災したインド人の救済もしたそうなのです。住宅を失ったインド人を横浜に再び招くために住宅の手当てまでしたとか。そんな横浜市民に対し在日インド人教会から感謝、また被災したインド人の慰霊という意味を込め、昭和14年(1939)に建てられました。用途は水飲み場。インド、イスラム、日本風が混在したデザインが特徴的です。
設計は横浜市4代目建設課長の鷲巣昌。

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インド水塔は天井が見事なのです。別府ステインド硝子製作所が制作したグラスモザイクが美しく、周囲を飾る漆喰装飾がまた凄い。日本の左官屋さんはレベルが高い!!!

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横浜市開港記念会館は大正6年(1917)に福田重義の設計により建てられました。関東大震災によって多くを焼失しましたが、昭和2年、53年、平成元年と修理をし、ようやく建設当初の姿になったそうです。まず目立つのは時計塔でしょう。江戸時代以前は、日が出ると起き、日が没すると床に就く。夏は長く働き冬は短く働くという自然時間でした。明治維新を境に、西洋から年中変わることのない均質時間に変わります。こうした時間の概念を理解させるために、多くの人が集まる場所に時計塔を立てたのです。赤いレンガに白い花崗岩がアクセント、辰野式フリークラシックと呼ばれるスタイルです。

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玄関ロビーの床にはタイルで可憐な紋様が描かれています。

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大井の渡し、横浜市章と鳳凰、箱根越えの3枚のステンドグラス。

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横浜市開港記念会館は、岡倉天心(1863〜1913)生誕の地でもあります。
明治維新を境に急速な西洋化が進ましたが、日本の文化や精神性の大事さを最も理解し活動した人ではないでしょうか。日本美術の父として、横山大観、下村観山、菱田春草、木村武山など育てます。さらに廃仏毀釈によって日本全国の寺や仏像が破壊され惨憺たる状況になった中、初代内閣総理大臣である伊藤博文に日本の美術の素晴らしさを訴え、古社寺保存法制定され仏像修復に邁進します。悩ましいことが修復の仕方だったそうです。美術品と見るならば修復はしない方が良い。しかし信仰となると修復し完全体でなければならない。そこで岡倉天心は現状維持修理法を考え、仏像を部分的に削ることなく修復します。これはとても画期的なことで大変な偉業だそうです。現在、私達が各地で仏像を見ることができるのは岡倉天心のお陰なのですね。また、英語で書かれていますが茶の本など名著も残しています。岡倉天心に感謝するばかりです。

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神奈川県立歴史博物館(旧横浜正金銀行本店本館)は明治37年(1904)に妻木頼黄(つまきよりなか)の設計で建築されました。辰野金吾、片山東熊と並ぶ日本近代建築史上の巨人です。この後に行く赤レンガ倉庫も妻木頼黄の設計です。重量感ある重厚なデザインはネオバロック様式。煉瓦及び石造の3階建、地下1階の構造になります。現在は歴史博物館になっていて、ツアーではフリータイムでご見学下さい。縄文時代から現在まで時代毎に見やすく展示されています。また学芸員も親切なので疑問点は優しく解説してくれます。個人的には眞葛焼を見ていただきたい。宮川香山という京都出身の陶芸家が横浜で焼いた器です。薩摩焼の影響が強いのですが技巧が素晴らしいですよ。

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日本興亜馬車道ビルはリノベートとして高く評価されています。旧建物は大正11年(1922)に矢部又吉の設計により建築、新築の高層ビルは平成元年(1989)に日建設計により建てられました。新築のビルに昔のレトロな外壁を貼付けるのは「かさぶた建築」というそうです。

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横浜赤レンガ倉庫です。1号館は大正2年(1913)、2号館は明治44年(1911)に妻木頼黄の設計により建築されます。1号館は関東大震災により半壊したので、現在の大きさは創建時のほぼ半分ほど。内部の鉄骨はドイツから輸入し、リフトやスロープなども設けた最新鋭のものでした。しかし時代は流れ、最新の物流機能を備えたコンテナ埠頭に役割を奪われ、倉庫として利用が次第に減っていきました。現在は文化・商業施設に衣替えして開業。多くの人で賑わっています。

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みなとみらいに移動しデザートタイム。「アローズ・パレット」でヨーグルトジェラートはいかがでしょう。当初はこの後に行くドックの傍という立地から寄ろうと思ったのですが、食するとこれがなかなかに美味しい。イタリアの名門プリジェル社の原材料と、カルビジャーニ社製のマシンを使用しているそうです。何が何だか・・・ですけど。
プレーンがおすすめ!

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ツアーも終盤。横浜船渠2号ドックです。真鶴産の小松石をブラフ積みにした民営のものとしては現存最古の石造乾船渠(ドライドック)です。明治29年(1896)に建設され、昭和48年(1973)に役割を終えます。船舶補修用のドック。

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横浜船渠1号ドックは明治31年(1898)に竣工。こちらも船舶補修用のドライドックです。仕組みは扉を開けて船が入り、扉を閉め海水を抜く。検査や船体の水面下部分の修理、外板・船底の清掃や塗装など船の手入れを行います。

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最後はお土産タイム。馬車道十番館に立ち寄ります。

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さすが馬車道。牛馬飲水とな。

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馬車道十番館のビスカウトはオススメ!パッケージが可愛く、味わいも優しくて最高。
温故知新のようなお菓子です。お土産を買う気満々の方は余裕のあるリュックをご用意下さいね。最後にぷちヒルクライムがありますから。そんなこんなの魅惑の横浜ツアーの詳細でした。是非ツアーに参加してね〜☆


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池ヶ谷 誠 について

セブンヒルズアドベンチャー代表。東京近郊でアウトドアツアーを企画運営。MTB・トレイルランニング・シャワークライミングなどマルチにガイディングしています。1973年神奈川生まれ。
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